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| この一年近く、エイズにアプローチする過程で得られた認識は、いつも当初の期待を遥かに越え、私たちに次なる課題設定と新たな認識を促すものばかりだった。エイズにアプローチすることで、逆に私たちは、日本という国の将来の姿を私たちがどのように展望し、そのためにどのように行動するつもりかを問いかけられる結果となった。 |
| エイズのような病気や今後私たちが直面する高齢化の問題は、医療技術や医療システムだけで解決できるものではない。また、日本の経済成長が臨界点に達すると同時に社会保障システムの限界も見え始めた。今後は個々人に求められるところがますます大きくなる。 |
| さて、友情や愛情という言葉にはその質や深さは含まれていない。含まれていないのに、如何にも確固として実在するもののように取り扱われる。多分、これが話を分かりにくくしている原因の一つではないだろうか。 |
| 例えば、バディと友だち、バディと家族はどこが違うのかという質問は、一見率直で、部外者としては一応許されるものだと思う。だから、松本さんもジョニーも同様の質問に親切に答えようと苦心してくれたのだろう。しかし、どの程度の友だち、あるいはどんな家族関係と比較しようとしているのかは触れられていないのだから随分と無理な質問ではないか。 |
| 考えてみれば、HIVに感染し、あるいはエイズを発病したとき、その事実を受け容れ、ささえてくれる友だちが、はたして何人いるだろうか。家族はどうだろうか。 |
| クライアントを『弟』のように思うと言った松本さんの言葉がとても印象的だった。 |
| 問題の本質は、友情や愛情の質を確かめない私たちの日常生活と社会生活にあるのかもしれない。逆に、HIV/AIDSという困難に直面した不特定の人間を、何の偏見もなく友だちとして受け容れる用意のできている人と、そのささえを受け容れることのできる人の関係を『バディ』と呼ぶとするなら、HIV/AIDSに類する事実を受け容れ、乗り越えることができなくて去っていく友だちや家族をいったい何と呼べばいいのだろうか。 |
| どうも事情はそうらしい。そして、そのような背景があったからこそ、バディが一つのサポート・システムとして登場したと考えられる(もちろん、友だち、家族であればこそ受け容れにくいという側面もある)。 |
| 戦後の日本の高度経済成長は、そんな面倒くさいことを個々人が考えなくても済むようにすばらしい社会システムをつくり上げてくれた。病気は病院で治してくれるものと、それが全てだと思い込んでいる人のなんと多いことか。日本の社会システムが劣っているわけではないだろう。しかし、人と人とがささえ合うコミュニティ基盤が脆弱になっていることは認識しておかなければならない。補強する必要はある。 |
| 『バディは友だち』という当たり前過ぎて答えにならないような答えは、どのような状況でのどのような友だちかという前提を加えれば、とてもクリアな答えになっている。むしろ難しいのは、友情や愛情の質など振り返ってみたこともない、あるいはこれまでその必要もなかった人たちにそれがどう伝えられるかだろう。しかし、HIV/AIDSはもちろんのこと、現実の問題として間近に迫った高齢化社会をイメージするとき、これはどうしてもやっておかなければならない。 |
| 通常、友情や愛情の問題は、一歩日常から離れて、文学や芸術の中だけで議論されることが多いが、個々人にとって最近流行のQOL(Quality of Life)よりもさらに切実な問題として、もう一つのQOL、Quality of LoveとQOF、Quality of Friendshipについて真面目に考え始める時期がきているのではないだろうか。 |
| 私たちに新たな認識と理解を与えてくれた松本さんとジョニー、そして二人を紹介して下さったセント・ルークス・ルーズベルト病院の稲田頼太郎先生に心から感謝しているし、このように素敵な人たちが『いる』ことに感謝したい。 |
| また、今回のインタビューはAPICHAの理解なしには実現しなかった。改めてお礼申し上げたい。 |